あの頃は「ニューハーフ」なんて言葉さえなかったのに

私の若い頃は「ニューハーフ」なんて洒落た呼び方はありませんでした。女装家の方たちはみな「おかま」と呼ばれていました。そんな時代のお話です、私のバイト先の飲み屋には和服の似合う、それは美人のお客様が来られていました。カウンター越しに相手をするのはいつもベテランのスタッフで、私のようなアルバイトは近づいてはいけないものだと思っていました。ある日、先輩方がいなくて、どうしても私がオーダーを取って、しばらくお相手をしなくてはならなくなりました。

前に立ってみると、それは美しい方で若かった私には荷が重すぎるお客に思えました。でも、意外に気さくな人で私のためにビールや軽食を注文してくれて、いろいろと水商売のイロハなどもレクチャーしてもらいました。それが、恐怖の日々の始まりになるとはまったく予想もしませんでした。

その和服の女性が二度目に来られた時には先輩から「ご指名だ、いいか気をつけろよ」と厨房の脇まで呼ばれて注意されました。私は大事なお客なので粗相のないように「気をつける」のだと思っていましたが、三度目に呼ばれたときに異変に気が付きました。このお客、異常に声が低いのです。当初はあまり気が付かなかったのですが、軽口をきくようになると、どんどんトーンが低くなって来るような気がしました。

先輩に聞いてみると唖然とされました「知らんかったとや、あの人はオカマぜ」私は、その”おかま”という言葉は聞いたことはありましたが、実物を見るのは初めてだったので驚いてしまいました。「やけん、気をつけろち言うたろが」と先輩は続けます、しかし、まだ私には気を付けろの意味がわかっていなかったのです。

悪い人でもなかったので店が閉まっていっしょに飲みに行くこともありました。結局、朝まで飲むことになってしまうので終盤には頬まわりに薄っすらと髭が生えて来たのを見ました、気分がいいものではありません。私は、なるべくいっしょに行かないように心がけるようにしたのですが、店の前で待っていて連れていかれたりと断れない状況がだんだんと増えてきました。

いっしょに飲みに行ってアパートに遊びに来ないかと誘われたことがあります。もう、朝でしたしコーヒーでも飲んで帰ればいいやくらいで立ち寄ったのですが、その人の部屋はマンション的なビルの1階にあって、おじゃましている間に「ねえさん」「ねーさん」「ネ~サン」とご同業の方がどんどん集まって来ました。みなさん私を見ると蛇がカエルを見つけたような目をして「あら、ねえさんの彼氏」めっそうもありません。恐怖にかられた私は、その部屋にあった絃が切れたギターで森田健作の「さらば涙といおう」を歌って逃げるように部屋を出ました。

たまにしか来ないオーナーに話をすると「気をつけろて言われんかったや」と聞かれました、確かに気を付けるように言われましたが、その気を付け方がよくわかっていなかったのです。オーナーが言うには「あの人たちに関わったらいかん、連れていかれるぜ」(どこに?)とにかく、その日以降、電話に出たり店に来ても接客してはいけないと言われ、先輩方が防御してくれることになりました。まるで、「耳なし芳一」です、でも先輩の話によると”おかま”の方は独特の考えを持っていて、気に入った人間は手放さない為、親交をを持ってはいけないとのことでした。

しばらくの間、店への電話や店の前での拉致に関しては先輩が対応してくれましたが、結局オーナーの計らいで店舗を移してもらいました。かなり恐ろしいことになりかけていたようです、「耳なし芳一」のように耳だけ持って行かれなくてよかったです。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA