日本航空123便墜落事故から33年目の夏が御巣鷹山の尾根に来る。

あの時の衝撃を忘れられない、1985年私が就職した年の出来事です。大阪伊丹空港に向けてJA8119型機はJAL123便として1985年8月12日18:04に羽田空港を出発します。離陸後は南西に進んんだ後、伊豆大島から西に巡行、和歌山県東牟婁郡串本町上空で北西に旋回、伊丹空港には18時56分の到着予定でした。しかし、18時24分、相模湾上空を巡航高度の24,000ft(7,200m)へ向け上昇中、23,900ftを通過したところで緊急事態が発生しました。突然の衝撃音と共にJA8119 型機の垂直尾翼は垂直安定板の下半分を残して破壊され、補助動力装置も喪失、その際に油圧操縦システムの4系統全てに損傷が及びます、その結果、操縦システムに必要な作業油が全て流れ出して、油圧を使用した昇降舵や補助翼の操縦ができなくなってしまいます。

ダッチロール(当時有名になった振動運動)を起こした機体は迷走すると同時に上下動を繰り返します。しかし、クルーの必死の制御により17分間は20,000ft (6,000m)以上で飛行を続けました。18時40分頃、空気抵抗を利用した降下手段として着陸装置(車輪)を降ろした後、富士山の東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をして、4,600mも急降下します。

その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉県上空で左旋回して群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始めます。123便は衝撃音の発生から墜落までの間、破片を落としながら飛行を続けました、機体の破片は相模湾と墜落現場だけではなく、東京都西多摩郡奥多摩日原でも機体の破片が発見されています。その奥多摩町で一般人が撮影した写真によってJA8119型機が「垂直尾翼の大部分を失った状態」で飛行していたことが、後日初めて明らかとなりました。

想像を超える操縦室での闘い

後に、発見されたフライトレコーダーから事故当時の内容が公開されました。その中には尾翼の大半を失い操縦不能に陥りかけた123便を必死に立てなおそうとする機長や副操縦士の生々しい声が残されています。(以下、フライトレコーダー記録より抜粋)CAP:機長、COP:副操縦士、F/E航空機関士

【18・49・39】

CAP あーだめだーー

CAP ストール

CAP マックパワー マックパワー マックパワー

CAP ストール

CAP はい高度落ちた

【18・49・45】

(COMが呼びかける)

【19・49・46】

(失速警報音)

【18.49.48】

(YOKが呼びかける)

【18・50・06】

COP スピードが出ています スピードが

CAP どーんと行こうや!

【18・50・27】

CAP がんばれ

COP はい

F/E  マック

CAP あたま下げろ

CAP いまコントロールがいっぱいです

F/E マックパワー

【18・56・07】

CAP あたま上げろ

【18・56・10】

CAP パワー

機械音に続いて 18・24・26衝撃音 18・56・28録音終了

私が見た記録は6時24分12秒に録音が開始され、6時56分28秒で終了していました。その間、約32分機長と副操縦士、スタッフとのやり取りは息を飲むものがあります。高濱雅巳機長は操縦が効かなくなっていく状況で最後に「ドーンと行こうや」と言います。この言葉を聞いたときに涙が止まりませんでした。副操縦士や機関士を励ましながら極限の状態でも諦めず「ドーンと行こうや」と言える機長、国内最大の航空機事故であり哀しい出来事であったことは間違いありません、しかし、この事故を防ごうとプロとして最後まで最善を尽くした人たちがいたことを忘れないでください。

もうじき事故のあった12日がやってきます。今年も御巣鷹山の尾根にはたくさんの遺族の方がお祈りに訪れることでしょう。私はご家族のご冥福をお祈りすると共に高濱機長の勇気ある仕事を永遠に褒めたたえていきたいと思います。

 

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