8月9日 長崎は今日も雨、あの日も雨だったら。今日は72回目の「原爆の日」

長崎は今日、8月9日72回目の原爆の日を迎えました。例年のように爆心地近くの平和公園(長崎市)では平和祈念式典が開かれ、追悼の祈りがささげられました。田神富久長崎市長は平和宣言で、国連で7月に初めて採択された核兵器禁止条約に日本政府が参加するように求めました。長崎市の発表によると、式典に出席したのは被爆者や58ヵ国の代表ら約5400人、原爆投下時刻の午前11時2分に黙祷し犠牲者の冥福を祈りました。

長崎で使用された原爆は人類史上実戦で使用された最後の核兵器です。8月6日に広島への原爆投下作戦を終了した部隊はテニアン島に帰還しました、その夜に2度目の投下作戦が告げられます。目標は第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市でした。出撃機は合計6機、原爆投下に使用されたのは”ボックスカー”と呼ばれる機体でした。

先行していたエノラ・ゲイからは小倉市には朝霧がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝霧がかかっており曇っているが、雲量は10分の2であるとの報告が入りました。午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始します。しかし、小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のために、目視による投下目標確認に失敗します。その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行いますがこれも失敗します。この間におよそ45分が経過してしまいます。

長崎上空へ

爆撃部隊は目標を小倉市から第二目標である長崎市に変更、午前10時30分頃、小倉上空を離脱します。先行していた長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していました。しかし爆撃部隊が長崎上空に達したときには長崎上空は厚い雲に覆い隠されていました。命令では目視爆撃が不可能な場合には太平洋に原爆を投棄することになっていました。

爆撃機搭乗員は当初の命令に違反してレーダーに頼った原爆投下を行おうとします。その瞬間です、本来の投下予定地点よりも北寄りの地点だったのですが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市内が覗いたのです。午前10時58分、高度9,000mから原子爆弾「ファットマン」が手動投下されます。ファットマンは放物線を描きながら落下、約4分後の午前11時2分、市街中心部から北へ約3kmもそれた松山町171番地の別荘のテニスコート上空503m±10mで炸裂しました。

苦しみは長く続く

原爆が長崎に投下された当時、長崎の人口は約24万人でしたが、原爆によって1945年(昭和20年)12月末までに73,884人が亡くなりました。74,909人が負傷し、原爆の熱線・爆風・放射線による原爆症が多くの人を苦しめ、生き残った人も時が経つにつれて様々な病気になりました。そうした後遺症で今でも苦しんでいる人がいます。

私の祖母も長崎の出身でした。亡くなるまで自分で話すことはありませんでしたが「被爆者手帳」を持っていました。小学生の頃、偶然に見かけたことがあります。当時はそれが何なのか何を意味するのかは解りませんでしたが、後に知ることになります。小さな頃、祖父母と長崎を訪ねたことがあります、グラバー邸を見たり中華街で龍舞を見たり、楽しかった思い出がいっぱいです。

祖母は一度も自分が”被爆者”であることは語りませんでした。恐らくは話すことができなかったのだと思います、優しい人でした。体調が悪いところを見かけたこともなく、死因が原爆に関連したものなのかどうかもわかりません。しかし、「被爆者手帳」被爆という重荷を背負って福岡に嫁いできた祖母はピカを忘れることはできなかっただろうと思います。夏が来ると明るく笑う祖母を思い起こします。

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