人としての“徳”を積んだのかサッチーこと野村沙知代さん、あっけなく逝かれる。

引用 デイリースポーツ

野村克也元・監督の妻でタレントの野村沙知代さんが12月8日、東京都内の病院で虚血性心不全の為、亡くなりました。享年85歳でした。夫の克也氏は夕方7時過ぎに自宅に戻った際に報道陣の前に姿を見せ「(死因)はわからない。突然死のようなもの。ずっといっしょだったのに。すべて奥さんがリードしてくれた」と絞り出すように語りました。克也氏の話のように沙知代さんは苦しむこともなく、搬送された病院で急逝されたようです。

私は以前、父が倒れた際にリハビリで入っていた病院の前で旅館を経営する女将に言われたことがあります。私が「自分のときはポックリ逝きたいもです」と話しかけると女将は真顔で「みなさん、そうおっしゃいますが、ほとんどの方は床について長い間苦しまれるようですよ。あっさり、この世を去れるなんて方はよっぽど徳の高い方だと思いますよ」と返されました。病院の前で長年、患者の家族を見てきた女将の言葉は身に染みました。その言葉通りに父は車椅子の生活を10年以上続けています、半身不随で言葉をしゃべることもできません。

不思議なもので、人としてその生涯をどう生きたかで、最後も決まるのかもしれません。サッチーこと沙知代さんが「いい人か」「悪い人か」などと言うことよりも、昭和から平成にかけて常人ではできない経験をして、野村元監督の妻として添い遂げたことが、彼女の評価ではないのではないのでしょうか。

サッチーという人、その強烈なキャラクター

沙知代さんは1932年(昭和7年)、福島県白河に生まれました。しばらくすると東京・荒川区に転居、父親は都バスの運転手でしたが、太平洋戦争の激化による疎開として、再び故郷である福島に戻ることになります。この生い立ちに関して沙知代さんは「東京の田園調布出身で、皇族の出である」などと自称し、周囲に言いふらしていたそうです。弟の伊藤信義さんによれば、幼少期から虚言癖があったということです。

彼女の学歴は東京都荒川区立第二瑞光国民学校で終了します。福島で進学しようとしますが断念し、地元で電話交換手として働き始めます。この仕事をしていた頃「ミス白河」に抜擢され優勝した事をきっかけに、電話交換手をやめ東京に舞い戻ります。しばらくの間は家族とは音信不通の状態だったようです、終戦後の数年間は米兵相手の「パンパン」(米兵を相手にした私娼)として身をたてていたといいます。本人の自著によれば、ニューヨーク市にあるコロンビア大学”精神心理学部”を卒業し、同時通訳者になっていたことになっています。

その後1972年、アメリカ軍将校として来日していた東欧ユダヤ系アメリカ人のアルヴィン・エンゲルと最初の結婚をし、息子・ダン(野村克晃)と

引用 サンケイスポーツ

ケニー(野村克彦)の2児をもうけます。この婚姻関係が解消されることもなく、沙知代さんは当時すでに既婚者であった野村克也さんの愛人となったのです。今風にいうところのダブル不倫状態だったのです、翌年には克也さんとの間に三男・克則が誕生します。1978年に克也さんの前妻との離婚が成立し沙知代さんが正式の妻となります。

その後はみなさんもご存知の通り、選挙に出馬し経歴詐称で訴えられる、脱税で訴えられると、法的に裁かれる身となってしまいます。こうした間も夫の克也氏は妻である沙知代さんを見限ることなく、有罪判決が出て以降も変わらぬ夫婦仲で連れ添ってきました。私たちのような一般人から見れば破天荒な人生を送った女性にしか見えないのですが、野村監督にとっては「かわいい」女房でしかなかったようです。

野村克也さんは8日2度目の会見で「僕も2度目、彼女も2度目ですから、お互い経験豊富だったし、男心も理解してた。典型的なかかぁ殿下、年上ですし、奥さんの言いなりの家庭でした。克則ができるとはゆめにも思わなかった。太い絆ができて、今日まで円満にこれたのは克則のおかげです」と語りました。どんなことがあろうとも最後に『いい女房でした』と言わせた野村沙知代さんは、人間として徳を積み、見事にあっさりとこの世を去ったのです。ご冥福をお祈りいたします。

 

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