3.11東日本大震災から7年、『何が』失われたのかをまだわかっていない人がいる。

その日、私は銀座のオフィスビルのリーシング打ち合わせのため銀座にあるビルを見に行っていました。異変が起きたのはビルを出て道路脇で煙草を吸おうとした時です。若い奴が言うのです「揺れています」私は道路を通る大型トラックを指差しました、しかし、彼はさらに我々が今まで見ていた背後のオフィスビルを指差しました。その時の様子は今でも忘れることができません、大きく前後にビルが揺れているのです、周辺のビルも揺れていました。それは、信じられないような光景でした、前後にぶつかるのではないかと思われるほど、激しく高層ビルが揺れていました。東日本大震災の始まりでした。

思い出す私の3.11

■その時には外で仕事をしていました

私達が巨大地震を認識したころ宮城県や福島県では巨大津波の恐怖が忍び寄っていました。私たちは道路脇の歩道を埋めるようにビルを出てきた人々を押し分けながら新橋の駅に向かいました。そこには停まった「新幹線」が見えました、会社の仲間とは途中ではぐれ、人の海の中にいる状態でした。そのまま会社に帰るのをあきらめ、東京駅に向かいました。なんとか東京駅周辺まで歩き、丸ビル内のモニターを見た時です「空港に押し寄せる波の状況」を映しだしていました。そうです、巨大な津波が東北地区を襲っていたのです。その光景を見た時「帰らなければ」そう思いました。

■帰宅困難者となってわかる都会の不自由さ

まず、落ち着いて状況を考えてみました。「大規模な地震が起きている」「東北に震源がある」「携帯電話は通じない」「電車は既に止まっている」余震も続いており、地下にいても不安になるくらいの強い揺れを感じました。咄嗟に判断はできませんでしたが、動くことは「危ない」と判断し、どこかに泊まって一夜を明かすことを決めました。しかし、ビジネス・ホテル、漫画喫茶、どこもいっぱいで泊まれる先はありませんでした。携帯は通じませんでしたが、電話ボックスの電話は通話が可能でした。しかも、列はありません、家内に電話すると無事で「地下鉄が動いている」と教えてくれました。しかし、以降、連絡はとれませんでした。

私達は被災地の住民ではなく数百キロ離れた場所にいる

■それでも帰ることはできた

幸いなことに自宅近くの駅まで地下鉄が動いていました。通常はJRで通勤しています、最寄りの地下鉄駅から常用のJR駅までは約8kmの距離がありました。家内に連絡も取れない為、自宅までの8kmを歩くことにしました。既に時刻は23時を超えていたと思います、道路わきの歩道には同じように自宅に向かうサラリーマンやOLがたくさん歩いていました。革靴は長距離歩行には向いておらず、踵にはマメが出来、血がでてきました。足を引きずるようにして歩かねばなりませんでした、それでも2時間近くかけて自宅に辿りつきました。

家では家内と娘が怯えきった状態で私の帰宅を待っていました。幸いなことに電気や水道のライフラインには何ら問題はなく、帰宅後すぐに地震の状況を知ることが出来ました。あの日のニュース映像は決して忘れることはできません、巨大な津波に呑み込まれて行く様々な建物、火災が発生しその状況でも津波が押し寄せている様子、神戸の地震の時にも衝撃を受けましたが、東日本大地震はより身近な恐怖として感じられました。

■生活者への影響はいろいろな形でやって来る

そして翌日からは地震そのものの影響もさることながら『原発事故』の現実が追い打ちをかけます。噂では「偉い人たちは関西に避難したらしい」「死の灰が降るらしい」「外国人は特別機で日本を離れているらしい」等、何が真実か分からない話が飛び交いました。事実、原子炉はメルトダウンしていたのです、当時、政府は「断じてメルトダウンはない」と言っていたのにです。それから数日、私たちは食品が買えないガソリンが買えない、日常的な不便に加え”原発事故の影響”に怯えて過ごしました。

しかし、被災地は信じられない状況になっていたのです。ほとんどの建物は流され、死傷者数は2017年3月10日時点で、死亡15,893名、行方不明2,553名、負傷6,152名、総合計24,598名となっています。なんと1万5千人以上の人々が亡くなったのです。震災以降、何度か被災地を訪れましたがかつて人が住んで「そこに生活があった」とは思えない惨状でした。そこで失われたものは家、人、そして生活…ニュースで伝えられる、そんなものだったのでしょうか?私の高校時代の友人が自衛隊の復興支援から戻って、しばらくして亡くなりました。彼はかなりの上級管理者であり多くの隊員の上に立っていたと聞きます。私は彼の夢を見たことがあります「遠くまで伸びた海岸線に無数のご遺体があって、それを運ぶ自衛隊員と、それを後方で見ている彼」普通の人間では耐えられないストレスがあったのではないでしょうか、彼の死因が被災地での経験のストレスというのは私の憶測にすぎません、しかし、そこで生活する人々とそれに関わる外部の人々は『何か』を失ったのではないでしょうか、そしてそれは未だに取り戻せていない『何か』なのではないでしょうか、毎年3.11にだけその『何か』を探そうとするニュース番組。地震の熊本、豪雨の甘木・朝倉、同じように『何か』を失ったのだと思います。「そこに人が住まなくなる、住めなくなる」のは『何か』が失われるからです、それはガスや水道、ましてや住宅などではなく人が持ちうる「希望」なのではないでしょうか。

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