まだ7万人もの避難生活者がいて「復興」なんて形すら見えていないのに、箱だけが出来ていく。

引用 フォト蔵

また3月11日がやって来ました。3月10日が「東京大空襲の日」そして11日が「東関東大地震」。東京大空襲からは既に73年が経過しています、その風化されつつある記憶はニュースを見てもピンとは来ません、しかし、たった2時間で10万人以上の犠牲者を出した歴史的な悲劇だったのです。その空襲も「語る人」がいなくなって、だんだんと忘れられていきます。東関東大震災からは7年、わたしたちの「震災」への記憶はどうなったのでしょうか?7年前は、ベッドの下にスニーカーを置き、緊急時のためにお風呂の水を溜めておくことが日課だったのに、もう遠いことになってしまっています。

被災地のインフラは整備されつつあるものの

■救援に来る人たちも、結局は「地元住人」ではない

東関東大震災では2万2千人以上が犠牲となりました。あれから7年が経過しています、住居や道路、鉄道などのインフラは整備されつつありますが、人々の暮らしやコミュニティの立て直しは、まだまだ進んでいません。東京電力福島第一原発事故の傷痕はなお深く、廃炉作業も遅々として進んでいないのが状況です。震災から1年を経過した頃、ある港を訪ねたとき地元の方が言っていました「道に船が乗り上げて、あちこち瓦礫だらけだったころは人がたくさん来たけど、片付くに従って来なくなってしまった」と、そうなんです被災地にやって来る人たちの多くは「被害」を見に来る人たちなのです。形だけ「被害」がなくなってしまうと、そうした人たちも来なくなってしまうのです。

■物理的なものは造ることができても「生活」は戻らない

復興庁の発表によると、被災者のための宅地を造る「高台移転」は90%、災害公営住宅は93%が完成しています。国道や鉄道も100%近くが復旧、再開しています。防潮堤は計画されていた92%が着工し、そのうち50%近くができあがっています。インフラは着々と整備されていますが、今もなお約7万3千人が避難生活を送っています。7万人と言えば、それなりの規模の市と変わらない人口です、それだけの人たちが被災地を離れ、別の地域で暮らしているのです。このことを考えただけでも、まだ震災からの「復興」が成っていないことがわかります。

失われたものは人々の地域へのこだわり

■「地元」が失われ、別の地域で生活が始まっている

震災から7年が経過し、建物や道路が整備され町としての姿は「復興」しているかのように見えますが、一方で人口の流出に歯止めがかかりません。岩手県、宮城県、福島県の3県は震災前と比較して25万人が減少しています。沿岸部を離れ、別の土地で生活を再建する被災者が増えています。また、観光目的の宿泊者数は3県とも震災前の水準には及んでいません。「戻る」どころか、逆に「出る」状態が続いているのです、震災で失われたのは街や日々の生活だけではなく「地域へのこだわり」もありました。

原発事故に遭った福島県では、4町村で避難指示が一斉に解除され、もうすぐ1年が経過しますが、帰還者はごくわずかな人数です。農業産出額も回復していません。避難生活に伴う精神的苦痛に対して支払われてきた賠償は、避難指示がおおむね解除されたとして、この3月で終了します。

■我々が出来ること・・・


震災以前から高齢化が進み過疎の問題を抱えていた沿岸部では、労働力として移住生活ができない高齢者を中心としてコミュニティが形成されている状態です。津波被害や原発被害によって奪われたのは日常の生活だけではなく、その地における「未来」だったのかもしれません。戻ることもできなくなってしまった避難生活者と呼ばれる7万3千人は、これから「どこで」生活者になればよいのでしょうか、本来的な「復興」を謳うのであれば従来の生活地である沿岸部に生活の場を供給するべきです、総合的なシステムを構築し、生活者を迎え入れなければなりません。まずは、生活を維持するための仕事と、その周辺の環境を国が整備しなくては「本来的な復興」はないのではないでしょうか。しかし、それ以前に必要なのは国の援助やボランティアではなく、私たちの被災地に対する「関心」です。1年に1度思い出すのではなく、日常のどこかで、それを持ち続けていくべきなのです。自己反省をする3.11ではありました。

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