日航機墜落から33年目の大きな節目、それでも忘れられない機長の「ドーンと!」

引用 サンケイ

1985年に起きた日航ジャンボ機墜落事故から8月12日で32年になるのを前に、事故直後に遺体が安置された群馬県藤岡市の光徳寺で21日「三十三回忌法要」が営まれました。遺族のほかに、地元住民や関東地方の住職ら150人が出席、犠牲者の冥福と安全への祈りをささげました。光徳寺住職、竹市文光さんは「三十三回忌は仏教では弔い上げの節目だが事故を風化させてはならないという気持ちはこれからも変わることはないと」と話しました。宗教的には大きな節目となっても、そこで終わるものは何もないのです。これからも事故の記憶は語り継いでいかなくてはなりません。

 

日本人として忘れてはいけない事故の記憶がここにある

 

■事故当時の記憶は失われることはない

 

1985年8月12日、東京(羽田)発大阪(伊丹)行き日本航空定期123便ボーイング747SR- 46は、18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24,000ftへ向け上昇中、23,900ftを通過したところで緊急事態が発生します。突然の衝撃音と共に機の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、補助同録装置も喪失、その際ハイドロプレッシャーシステムの4系統全てに損傷が及んだ結果、操縦システムに必要な作動油がすべて流れ出し、油圧を利用したエレベーターやエルロンの操舵が不可能になってしまいました。

 

■操縦困難な状態でも飛び続けた奇跡の飛行

 

操縦機能を失った機体はフゴイド(振動運動)やダッチロール(左右にロールする振動運動)を起こし、迷走し上昇と下降を繰り返しました。しかし、クルーの必死の操縦により17分間は20,000ft以上で飛行を続けていました。18時40分ごろ、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギアを降ろした後、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22,000ftから6,000ftへと一気に15,400ftも降下し、横田基地まで24㎞の至近距離に迫ります。その後、機体は羽田方面に向かうものの、埼玉県上空で左旋回し、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始めました。この間、機は一般人に撮影されており、それによると「垂直尾翼の大部分を失った状態」で飛行していたことが、後日、明らかとなります。ほとんど操縦の利かない状態で30分以上も飛行を続けた123便は「奇跡のフライト」だったのです。

 

33年が経過、今日も御巣鷹山では遺族の祈りが響く

 

■それでもクルーの姿が忘れられない

 

事故後、機内の状態が伝えられました。波多野チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示しています。生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員が落ち着いて行動していたといいます。その後、乗客は墜落時の衝撃に備え、いわゆる「不時着の姿勢」をとって、衝撃に備えました。墜落後に発見された客室の様子を語る資料として“不時着後に乗客出す指示を列挙したメモ”や“異常時発生後の機内の様子を撮影したカメラ”などから最後までクルーが乗客の為に最善を尽くしたことがわかっています。

 

■その名を忘れることができないのが「高濱機長」

 

毎年、夏が来るとこの話を書きます。来年も再来年も、きっとずっと書き続けると思います。私も忘れませんし、多くの人に忘れてほしくない高濱機長のことを。迷走を続ける機体を騙し騙し飛行を続ける高濱機長でしたが、18時56分30秒に高天原山の斜面に激突します。その直前56分28秒まで録音されていたボイスレコーダーに残された、機長の最後の声は「もうダメだ」でした。しかし、難しい操縦を続けていた高濱機長が、わずかに状況が好転したときに「ドーンといこう!」と言う場面があります。完全に操縦不能となる数分前、機体が持ち直した時の高濱機長の言葉です。8月も中旬となると私の耳には「ドーンと行こう」の言葉が繰り返されます。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするのは当然ですが、最後の最後までプロとして職責をまっとうされた機長やクルーのことは、決してわすれられません。ドーンと行こうや!

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