内田裕也のロックン・ロールは樹木希林の支えがなくてもロックなのか?ロカビリー最後の生き残り内田裕也を考える。

引用 NEVERまとめ

ロカビリーは1950年代に誕生した音楽スタイル。ロッカビリーとも呼ばれていました。代表的なミュージシャンにはエルビス・プレスリーやカール・パーキンスなどがいました。黒人音楽のブルースと白人音楽のヒルビリーやカントリー、ブルーグラスが融合して生まれたとされています。日本では1958年、平尾昌晃がソロ・デビューし、ミッキー・カーチス、山下敬二郎と共に「ロカビリー三人男」と称され「日劇ウエスタンカーニバル」などに出演し「ロカビリー・ブーム」に発展していきます。この頃、内田裕也は大手事務所、渡辺エンターテインメントに所属し、日劇ウエスタンカーニバルでデビュー、1966年6月のビートルズ来日の際には尾藤イサオとツインボーカルでビートル武道館公演の前座を務めたこともあります。1960年代に入ってからは、ベンチャーズやビートルズの影響を受けてロック色を強めていきます。

内田裕也が「何者なのか?」知らない世代が増えた

■シンガーであり俳優

内田裕也には「誰もが知っている」ヒット曲はありません、しかし、50年代から60年代の音楽シーンにおいて新しいカテゴリーの担い手であり、パイオニアであったことは間違いありません。所属事務所では“ロックプロデューサー”を理解されず、事務所を辞め、独自の活動へと入っていきます。彼の活動は音楽だけに止まらず、1970年代からは俳優としても活躍し、自らの脚本で「コミック雑誌なんかいらない」「魚からダイオキシン」を製作、主演を演じました。最近の若い方々は「変な爺さん」くらいにしか見ていないでしょうが映画出演だけでも約50作にもなります。

■その破天荒な生き方をロックと呼ぶのか?

内田裕也は才人であるとともにトラブルメーカーでもあり、こうした面を樹木希林は離婚否定の記者会見の場でこう表現しています「あの人は、私に依存していて中毒ですし、私もあの人に中毒なのです。それだけ惚れているし、互いに必要な存在なのです。」当時、樹木希林は38歳、内田裕也は勝手に離婚届を出してハワイに逃げていきます。ここから40年の長きに渡って内田との別居生活が始まるのです。かねて浮気や暴力が報じられていましたが樹木希林は60名を超す報道陣の前で「伏して、頭を下げて、大恥をかいても、もう一度戻ってきてほしい」と切々と訴えました。この後、樹木希林は「離婚届の無効」を訴えます。

老年になると錆びついてきた”ロック魂”

■樹木希林は常に内田裕也を支えてきた

破天荒な行動で知られた内田裕也ですが、2011年には強要未遂の罪で逮捕されることになります。内田は50歳のキャビンアテンダントに別れ話をされ、別れたくないため復縁を強要したのです。内田は「会社に連絡した。内容は、暴力団と交際している。あぶりをやっている。まだ実名は言ってない。よく考えて一週間以内に電話を今ならまだ間に合う」んどとメールしたり、住居に侵入して復縁を迫ったことが、強要未遂とされ逮捕されたのです。この事件でも樹木希林は「純なものがひとかけら見える」「あの人は責任を取れる人が必要」と離婚を否定し、内田を擁護する発言をしました。内田も「向こうが邪魔でなければ家族らしい行動をとっていきたい」と応えています。

■樹木希林を見送って、これからが本当の「ロックンロール」

老年に入って俳優として充実した仕事に恵まれた樹木希林と「ロックンロール」を繰り返すも、やはり過去のミュージシャンであり俳優になりつつある内田裕也との奇妙な関係は、樹木希林の逝去とともに終わるのかもしれません。恐らくは80年以降は樹木希林がいたから内田裕也が成立したのです。彼の独自の「ロック」は樹木希林が支えてきたのです、かつて大瀧詠一との対談で内田裕也はフォークとロックの違いを「ドラッグをやって、するのがロック」それだけの違いだと言い切ったことがあります。要は、通常の状態ではロックは出来ないと言いたかったのです。そんな内田のロックに樹木希林は心酔していたのかも知れません、彼のことが分かるのは自分だけだから“全身癌”となっても彼のことを、面倒を見てきたのでしょう。これからが内田裕也の「ロックンロール」を証明する時かもしれません、支えられてきたのか、引っ張ってきたのか。最後まで「ロックンロール」して結果を出してください。

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