お色気医事漫談のケーシー高峰逝く!平成の最後に昭和の代表的お笑い芸人が去る。

引用 漫才の台本書き起こし仕方

最近のお笑いに慣れた方には「お色気医事漫談」という言葉は初めて聞かれるかも知れません、この漫談はケーシー高峰さんが黒板やホワイトボードを使って、白衣姿でピンク系のお笑いを初めてやったことから始まりました。元祖、お色気医事漫談のケーシー高峰さんが8日午後3次35分、肺気腫のために入院先の福島県いわき市の病院で逝去されました。山形県の出身、葬儀は近親者のみで行われる予定です。

最後までお色気医事漫談のケーシー高峰として

■マルチタレントの草分け

ケーシー高峰さんは医事漫談の第一人者として、半世紀上に渡って活躍しました。俳優としても渋い演技で数多くの作品に参加、マルチタレントの草分け的存在でした。軽妙な話術で観客を沸かせたドクター・ケーシーが亡くなりました。30年以上前に移り住んだいわき市内の病院で家族らに看取られての旅立ちとなりました。高峰さんは肺を患っていたため、昨年9月以降は仕事を控えて自宅で療養中でした。しかし、約1ヵ月前から入院していました。古くからの知人は「若いころから愛煙家。肺を悪くしていたようだった」と明かしています。最後の仕事は同月に収録された演芸番組「お笑い演芸館+」(BS朝日)となりました。鼻に酸素吸入器をつけ、椅子に座るなどして最後の漫談を繰り広げました。

■高い知性が質の高いお色気漫談を生む

高峰さんの父親は商社マン、母の家系は江尾時代から続く医師家系、家業を継ぐために日本大学医学部に入学しました。しかし、容姿で差別する教授と折り合いが悪く、ジャズやラジオに傾倒していき、芸術学部に転部しました。在学中からジャズクラブなどの司会業で頭角を現し、1957年の卒業後、本格的に芸人の道へ進みます。漫才師「リーガル天才・秀才」に弟子入りし、漫才コンビ「大空はるか・かなた」として活躍しました。解散後の68年、ケーシー高峰に改名し、白衣姿で黒板やホワイトボードを使い、医学を説明しながらエロネタを交えていく毒舌の医事漫談を生み出し、お笑い番組に引っ張りだことなりました。「グラッチェ」「セニョリータ」など謎のラテン語を連発し、当時の流行語ともなりました。

周囲に絶賛された、その芸風

■立川談志が脱帽した、その漫談

その芸風は立川談志さんやビートたけしさんにも絶賛されました。立川談志さんは「ケーシーの後にはできねえや、あんなにウケてんだよ」と高峰さんの後にお客さんの前に出ることを嫌がったエピソードが残されています。ビートたけしさんも、自らのラジオ番組に高峰さんのコーナーを設けるなど、その芸風を高く評価していました。人気者として支持される反面、病との付き合いは長く、70年代に患った腰痛は2003年に悪化し腰部脊柱管狭窄症と診断されていました。2005年には舌癌が見つかり、30針を縫う手術を受けました。復帰後には「タン(舌)キュー・べろマッチ」「顔は悪性です」と高峰さんならではの冗談を飛ばし、自らの病気さえネタにして披露していました。

■もう同じような芸人は出ることはない

医学部を止めた時に母親に勘当されました。医事漫談を始めた理由は「医者にはなれなかったけれど。白衣を着て親孝行をしたい」という思いからでした。芸名は脳外科医を描いた米テレビドラマ「ベン・ケーシー」と、少年時代に一目ぼれした高峰秀子さんからとったものです。高峰さんを作ったのは“昭和”の時代でした、下ネタ満載の高峰さんの漫談を今の時代は受け入れないでしょう。晩年には客いじりも取り入れた話芸へと変化していきましたが、いじられる女性客も「少しも嫌な顔」をせず「いじられること」を楽しんでいました。ケーシ高峰さんだから、成せるお笑いでした。80歳を超えてなお、正月の演芸番組には欠かせない存在となっていました。また、『本物の昭和の芸人』が逝ってしまいます。ご冥福をお祈りいたします、あの世でも多くの人を笑わせてください。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA