平成最後の「昭和の日」やっぱり思うのは昭和天皇の事、初めて象徴天皇として生きた昭和天皇に感謝!

引用 日本の歴史

本日は「昭和の日」そして明日は平成最後の日となります。おそらく明日は、マスコミ各社は退位される第125代天皇・明仁様のことを朝から晩まで流すことでしょう。しかし、今日は昭和の日、明仁様の父、『昭和天皇』に思いを馳せようではありませんか。戦争を経験し、戦後は“象徴”として日本国民の為に生きた方です。昨年、某国営放送のドラマでは薩摩藩の藩主を『国父』と呼んでいましたが、昭和天皇は正に国父であったのではないでしょうか、日本の経済発展や科学技術の進歩を支えたのは日本人としてのアイデンティティであり、その基盤には象徴天皇があったのだと思います。

マッカサーを唸らせた日本人、昭和天皇

■天皇と並んで写真に写るラフなマッカーサー

昭和天皇が戦後にGHQのマッカーサー総司令官と会見したのは1945年9月27日のことでした。今でも残る、マッカーサーと昭和天皇が並んだ写真には、ラフな格好で腰に手を当てたマッカーサーと直立不動で立つ小柄な昭和天皇が写されています。当時の日本国民にとっては衝撃的な写真だったことでしょう。昭和天皇はマッカーサーが居住していた駐日アメリカ合衆国大使館を訪問し、初めて会見しました。マッカーサーは「天皇の煙草の火を付けたとき、天皇の手が震えているのに気が付いた。できるだけ天皇の気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた」と回想しています。

■昭和天皇の言葉にマッカーサーは感銘を受けた

マッカーサーは昭和天皇が会見に来たのは、命乞いの為だと思っていました。しかし昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の決裁にゆだねるためにお訪ねした」と自らの処遇をマッカーサーに委ねたのです。この昭和天皇の態度に対してマッカーサーは「私は大きい感動に揺さぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでも揺り動かした」と後に語っています。もしも、この会見で総司令官であるマッカサーが昭和天皇に畏敬の念を持たなければ日本の国自体がどうなっていたかもわかりません、マッカーサーは写真にもあったように略装軍服でしたが、これは米大統領に対しても変わらない対応だったといいます。しかし、会見後にマッカーサーは上ボタンを閉め昭和天皇を車まで見送ったのです。

戦後には人間天皇として全国を巡幸

■巡幸は天皇を擁護するためのパフォーマンス?

戦前の天皇は一般国民との接触はほとんどなく、公開される写真、映像も大礼服や軍服姿がほとんどで、現人神、大元帥という立場を非常に強調していました。ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述がなく、天皇は微妙な立場に追い込まれました。その為、政府や宮内省などは、天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却して、巡幸という形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げていったのです。それまでは一人称として「朕」を用いるのが伝統であったのを一般人同様に「私」を用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上もっとも天皇と庶民が触れ合う期間を創出したのです。

■天皇が国民から敬愛されるのは、天皇に真に国民を思う気持ちがあるから

「昭和天皇の全国巡幸」と「平成天皇、皇后の被災地訪問」を同列に捉えることはできませんが、昭和天皇が国民との距離を近づける努力をされた結果が、平成時の被災地訪問に繋がっているのです。昭和天皇の巡幸を天皇制維持のためのパフォーマンスと位置ずける人も多いのでしょうが、マッカーサーが残した言葉のように昭和天皇には真に国民を思う気持ちがあったのです。その気持ちが災害の多かった平成時代における、天皇・皇后による被災地見舞いに繋がっているのです。被災地で被災者の目線位置で跪いて話をされる両陛下のお姿には心打たれるものがあります。昭和から平成へと天皇陛下のお姿を見てきましたが、天皇のいる日本が誇らしいものに思われます。時代は平成から令和へと移りますが、令和天皇を象徴天皇として、ともに新時代を歩いていきたいものです。

 

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